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「戦場のピアニスト」シュピルマン一家に捧げたショパン

  ショパン・コンクール期間中の2000年10月17日。ショパンの命日に、原作日本語訳者の佐藤泰一先生にご一緒して
  初めてシュピルマン邸を訪れてから4ヶ月。
  ご一家がコンサートにいらしてくださり、再会がかないました。

カンパネラ 〜クラシック音楽マガジン
CAMPANELLA 2001年6月号に

海外レポート ワルシャワ に
「シュピルマン一家に捧げたショパン」を書かせていただいています
(第50ページ)

海外レポート ワルシャワ
シュピルマン一家に捧げたショパン
                               
河合優子 (ピアニスト)

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(文章抜粋)


昨年7月に世を去ったポーランドのピアニスト、ヴワディスワフ・シュピルマンの奥様と息子さんに
初めてお会いしたのは、その年の10月のことです。(…)

2000年10月17日、ショパンの命日でコンクールは本選前日の休日という秋晴れの日、タクシー
で佐藤泰一先生とシュピルマン氏宅へ向かいました。(…)

おもに次男のアンジェイさんとゆっくりお話しし、プライヴェートのお父さんの録音を聴かせていただい
たり、愛用のスタインウェイを弾かせていただいたりしました。

第2次世界大戦中、屋根裏に隠れていたシュピルマンがドイツ将校に見つかったとき、ピアニストなら
演奏をと請われてショパンの嬰ハ短調ノクターンを弾いたところ、将校は彼を殺さなかったばかりか、
その後食料や布団までを届けて彼を励ましたといいます。

佐藤先生がなさったたくさんの質問のなかには、命を救ったショパンのノクターン嬰ハ短調は作品
27の1か、それとも遺作のほう(レント・コン・グラン・エスプレッオーネ)かというものがありました。
アンジェイさんは即座に「遺作のほうです」と答えられました。


それから4ヶ月後、在ポーランド大使館の山田洋一郎氏の依頼で、私はショパン生誕191年記念
パーティで演奏することになりました。

山田氏宅のサロンには集まった人々の中に、シュピルマン氏の奥様ハリーナさん、次男のアンジェイ
さんがおられることを私は知らず、思いがけず再会を喜び合いました。

長男のクリストファーさんともこの日初めてお会いし、流暢な日本語にはびっくりさせられました。

今日のショパンはこの一家に捧げようと、私は自然に心を決めました。シュピルマンが極限状態で
弾いたショパンの〈レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ〉(遺作のノクターン嬰ハ短調)を私は
最初に選んで、彼のことを思って弾き始めました。

ピアノの一番近くの場所にすわり、優しいまなざしでじっと耳を傾けておられたハリーナさんは、
「主人はきっとあなたの演奏に満足したにちがいないわ」と、私を抱きしめておっしゃってください
ました。

さらに話してくださった中で私は驚いたのは、老シュピルマン氏は私が前号(注・カンパネラ
2001年4月号)で触れたハイパーマーケットのオション(Auchan)で買い物をするのが大好き
だったということでした。

「主人はあのマーケットが一番好きでね。いつもご機嫌で出かけたのよ」

恐ろしいホロコースト、そして人間の極限の世界を描いたあの本と、私がいつも幸せな思いで
日々の買い物をしている新しいハイパーマーケット。このふたつは私の中ですぐには結びつかず、
あのきれいなマーケットで一緒の日にシュピルマンさんと買い物をしていたかもしれないと思う
と信じ難い気持ちでした。ぜひお会いしたかったと思います。

でもシュピルマン氏は20世紀最後の年まで生き延びて、戦後55年で大きく変貌を遂げた祖国
ポーランドを見届けてから天国へ旅立つことができたのだなと思いました。

ハリーナさんは自宅で撮った、ご主人の最晩年の写真を山のように見せてくださいました。
どれも茶目っ気のある瞳で微笑む暖かい笑顔のものばかりでした。

映画監督ロマン・ポランスキはこの『ザ・ピアニスト』(現在の映画・原作タイトルは 
『戦場のピアニスト』)の映画化を決め、すでにポーランドで撮影が始まっているそうです。
どんな映画になるのかとても興味深く、本とともに貴重な作品として残ってほしいと
心から願っています。
                                        (かわい・ゆうこ)


(2001年4月記)

コンサートの後に。左から次男のアンジェイ・シュピルマンさん、ご友人、私、
長男のクリストファー・シュピルマンさん、ハリーナ・シュピルマンさん、
大使館の山田洋一郎さん。